2014年9月27日土曜日

第280話 ピア門 物語り 後編

後編では、1870年9月20日の戦闘で活躍したベルサリエレ〔狙撃歩兵隊;Bersaghiere〕のことを中心に物語りを進めたいとおもいます。

ベルサリエレ〔狙撃砲兵隊〕の誕生は、アレッサンドロ・ラ・マルモラ将軍によって、1836年6月18日提案されたと云われています。特別に訓練した歩兵部隊だったようですが、詳しいことは分りません。

9月20日の城門突撃は、イタリア国王軍のベルサリエレ〔Bersaghiere〕の
精鋭部隊によって戦われたのでした。

現在でも、この流れを汲む部隊は在るそうです。果断・迅速に動くことが、
求められている歩兵部隊だったようです。

ヘルメットには、ヨーロッパライチョウの黒い羽根が飾られています。
何故、ヘルメットに鳥の羽根が飾られるのか分りません。

しかし、世界に類をみないこと〔戦闘兵士のヘルメットに羽根を飾ること〕
だけに、さすがファッションに強いこだわりを持つイタリア人の「意地」が感じられて興味が湧きます。

因みに9月20日の城壁突入攻撃における戦死者は、イタリア国王軍が、
53人、教皇側兵士は19人で、合計72人だったとのことです。

ピア門には、「Historical Museum of Bersaghieri」(ベルサリエリ歴史博物館)が、開設されており一般に開放されています。イタリア統一の一翼を担った狙撃兵士部隊〔Bersaghieri〕について、更なる関心をお持ちの方は

是非ともここの博物館をご覧になることをお勧め致します。〔入場無料〕
世界に伝わっています諺のひとつに、
         ”全ての道はローマへ通ず”、    ”Tutte le strade portano a Roma”
とあります。

今回、前編、後編でご紹介の”9月20日通り”は、差し詰め「イタリア統一の道はクイリナーレ宮殿へ通ず」と言い換えても良いのかも知れません。今、クイリナーレ宮殿は大統領官邸として、その偉容を誇っています。


創設者アレッサンドロ・ラ・マルモラ将軍
ベルサリエリ歴史博物館にて
 
 

            博物館入口にある来場記念帳にサイン
            しました 9/19/14とあるのが私のサインです 


            門ひとつ 調べてみれば 歴史在り
                                元鷹

2014年9月26日金曜日

第279話 ピア門 物語り 〔前編〕

前回のタイトルを「今日は9月20日です。」でした。そして、今日は「ピア門物語り〔前編〕」としましたが、先ずこの関係を解いてみたいと思うのです。
即ち、「ピア門」と「9月20日」との関係です。

               ◎ピア門について

場所は、地図を広げてみればローマ市の北東方向であり、テルミニ駅の
やや上方に位置します。

古代ローマにローマ中心部を取り囲んだアウレリアヌス城壁〔270年着工〕には、確か20前後の門〔市内外出入り通行、或は税関の役目か〕が
ありますが、その一つがピア門です。

ピア門のピアとは、この門を造った第224代教皇PIOⅣ世〔1560-1565〕の名から付けられたものと思われます。

ピア門は、1561-1565に造られたものですが、当初の設計は巨匠ミケランジェオ〔1475-1564〕晩年のものです。ですから、門が出来上がった頃には、彼は既にこの世を去っていた訳です。

しかし、幾多の曲折があって彼のデザインが生かされたのは大分の変更後のようです。元々は、ノメンターナ門と呼ばれた門が近隣に在ったそうで、その代替えとして造られたと云われています。

その後、当然何度かの修復改修などが行われて居るはずですが、現在の姿〔外側ファサード〕はヴィルジューノ・ヴィピニャーニによる新古典主義
の設計〔1869〕だそうです。

因みに現在、門の内側〔9月20日通り側〕直ぐ傍には、イギリス大使館が在ります。広い敷地に堂々と近代的建造物が聳えています。

また門の外側にある広場には、1932年ムッソリーニが建てBersaghiere
〔ベルサリエレ:1836年創設のイタリア歩兵隊の兵団の名称;羽根のついた兵隊帽をかぶる〕の記念碑が、ピア門に向って建っています。

以上のような事柄が、ピア門に関してのおおよその知識であります。
さて、次に「9月20日」の意味合いについてです。

 
               ◎9月20日について

前段として、イタリアの近代歴史を多少知っていた方が、理解しやすかと
思われます。1861年3月には、イタリア統合が成り、トリノが首都であった。その4年後1865年5月には、フィレンツエに遷都された。

そして、1871年7月にはローマがイタリア共和国の首都となった、という
歴史の流れがあります。即ち、19世紀〔1815年ー1871年〕のイタリア
統一運動≪RISORGIMENTO・リソルジメント≫の最終章が、この時1870年9月20日だったのであります。

1870年9月19日、イタリア国王軍はついに上記のピア門前に到着した
のでした。教皇ピオⅨ世〔1846-1878〕側と国王軍側との間では、何らかの交渉が行われたものと思われます。

しかし、結局同年9月20日(時刻不詳)、国王軍が3時間の砲撃をし、ローマ教皇領内〔ピア門正面から数十メートル西側の城壁を破り〕へ突入したのでした。ここにイタリア国王軍によるローマ占領が成され、半世紀以上に亘るイタリア統一の戦いにピリオドがここピア門で打たれたのでした。

以上のご説明にて、大まかにには「ピア門」、「9月20日」の関連性を把握
頂けたのではないでしょうか?不思議に歴史は、調べれば調べるほど解からないことが増え、先に進まなくなり困ります。

ピア門内側〔9月20日通り側〕より
            本年9月19日撮影しました


           
1870年9月20日 時間不詳
            国王軍が城壁を破り、ローマ領に突入した
            ピア門歴史館にある戦闘模型
            ピア門の右手から突入している様子が分ります

            
             
               ピア門は 9月20日に 誕生日
                                  元鷹
            

2014年9月20日土曜日

第278話 今日は、9月20日です。

ローマの秋は、空高く晴れ渡り、とお伝えしたいところですが、今年の秋は
夏同様に少々これまでと違った様相であります。

しかし、秋の味覚の数々は、既に街のスーパーマーケットやバンカレーレ《屋台式朝市場》に顔を出し、人々が手を出すのを待っているようです。

今日は、言わずと知れた9月20日です。
これまでに何度もブログに書かせて頂いた「9月20日通り」の日です。

1870年9月20日は、国王軍がローマに入り「ピア門」(正確にはピア門から50m位フューメ広場よりに位置した城壁)を突破した日であります。

現在の大統領官邸《QUIRINALEの丘》となった建物は,元々は法王庁の
建物であり、1870年9月20日以降は国王のお住まいとなった訳ですが、イタリアの政治歴史の変遷と共に、ここに住まう主人が変ったのであります。

今日のテーマは、このピア門では9月16日から21日までの6日間を
「ピア門の歴史に光を」とばかり、多彩なイベントが展開されています。

昨日19日《金》、知人の薦めもあってピア門に出掛けて参りました。
その見学、発見についてこれから前編、後編に分けてお伝えしたいと思います。

  ピア門は普段の景色と違って
人混みがありました
 
ピア門には国旗が飾られ、イベント開催
           の準備が進められていました 9/19午後

           ピア門に 三色旗が 翻る
           歴史忘れず 思い新たに    元鷹

            

2014年9月17日水曜日

第277話 キッチンの見えるレストラン

もう一週間程前に日本人女性のおふたかたから、メモを見せられて道を
聞かれた。幸いにもそのメモには、地図が書かれていたので何とか説明することが出来ました。行き先は、最近日本のTVで放映されたレストラン
であるとのこと。カラボナーラを食べてみたい、とおっしゃって。

そのレストランがあるところは、ローマ唯一の百貨店であります
「LA RINASCENTE」のフィウーメ広場に近い処にあり、私にとっては馴染のある地域です。

それでは野次馬根性を発揮しなくては、と「カルボナーラ」試食会へ出掛けてみました。その顛末をご案内致しましょう!

ラスト・オーダーが近くなった14:30ころ、私はそのレストランへ滑り込むことが出来ました。レストランは、想像していたほど大きいスペースでは無かった。食事をとっておられたお客様は、確か4組ほどでした。

中壁に仕切られて、大まかにふたつのスペースに分かれていたが、私は
カメリエレの薦めもあって、奥の方の二人掛けテーブルに席を取ることにした。確か、「キッチンが見えますよ!」と案内がてらに説明して貰った。

ナルホド!ローマのレストランも随分食べ歩きしましたが、このような仕掛けを持ったレストランは初めてだったので、良い席を案内してくれたことに
気持ち良く、嬉しくなっていた。

インテリアの印象ですが、至ってプレインです。黒を基調に一切の余計なものを取り除いた、云わば「味で勝負します!」宣言をしているようにも思えないことはありません。ただ、3連の白ランの鉢は蛇足のように思えた。


さて、肝心のキッチンの動きですが、食事に独りで居る訳ですから、シェフらのしごとぶりを見詰めながら、時間を過ごすこともあながち悪くありませんでした。興味津津と、言ってもよい程です。

シェフと思しき女性をはじめユニフォーム着用した5人が、キッチンを舞台に出たり入ったり、或は中央のテーブルをぐるっと回ったり忙しい様子を伺えるわけです。ウッ~!これは、アドリブ「キッチン劇場」なのでは?

注文品は、アンチパスチ:蛸とポテトのサラダ、プリモピアット:ラ・カルボナーラ、ワイン:北イタリアのワインをグラスワイン、と云った次第。

盛付も味も堪能しました。目玉の”ラ・カルボナーラ”は、超・アルデンテで
黒コショウもチーズも味わい深い印象に残る味でした。

会計時に質問をしてみました。お店の名前は、なぜ「MARZAPANE」なのですか?と。曰く、オーナーがシチリア人で、マルザパーネ《マジパン》が好きなんでしょう、と。

成程,そういえば、シチリア島ではマジパンをパスチチェリア、バールなどでも何度も見かけたことを想いだしました。シチリアの名物菓子です。

レストラン情報:
MARZAPANE roma
via velletri,39
tel.++39-06-6478-1692
info@marzapaneroma.com
www.marzapaneroma.com


                               ローマのレストランで初めてみかけた
            キッチンを窓越しに見ながら楽しめる

 
綺麗に並べられたイタリアワイン
            100本以上もありそうです。

            
ラ・カルボナーラ
            チーズ・黒コショウが効いています。
            オシャレな盛付、超・アルデンテ仕上げ。


            マルザパーネ 創る人たち ガラス戸に
                                   元鷹


第276話 CASA DI GOETHE

先日は念願であった「CASA DI GOETHE」(ゲーテの家)を訪れることが出来ました。以前にコルソ通りをご紹介した際に、「ゲーテの家」の写真(建物のみ)を掲載したことを覚えていらっしゃいますか?

メトロA線FLAMINIOで下車、ポポロ広場を目指して地上へ上がります。
ポポロ門を潜れば、広場がパノラマのように眼に入って参ります。双子教会が中央に、手前に天に聳えるオベリスクとライオンの座像が映ります。

広場の真ん中を横切って、双子教会(カタチがそっくり)の間を走るコルソ通りへ入った。二つ目のブロックに、「CASA DI GOETHE」(ゲーテの家)を見つけることができます。入口両脇には、赤系の旗がコルソ通りに
向かって飾られています。
 

「ゲーテの家」のある1F(日本式2F)までは、階段を使って上がります。会場の入口は、飾りけが余り無くドアは開けたままの状態でした。

入場すると受付には男性係員から、無愛想な表情で「3ユーロ」と告げられたのですが、”スリー・ユーロ”と聞こえずに”フリー・ユーロ”と聞こえてしまって、ひとり苦笑してしまいました。

私を東洋人とみて、イタリア語でなく態々英語で話してくれた訳ですから、
係員のことを無愛想な男性だと云っては、まことに失礼になってしまいます。彼が、言葉の気配りをしてくれたことに感謝すべきなのでしょう。

展示室は、ゆったり感のあるディスプレイがなされてゾクゾクと好奇心が
湧いてくるのを感じました。図書館(7m×7m程度)が配備されていて、
シニョーラが、一人忙しそうに書類の整理をしていたことが印象的でした。

中央には大きめのテーブルが置かれていて、来館者が自由に書き込められる特製の無地ノートが、ボールペンを栞がわりに前日の日付のページに挟まれていた。

パラパラとノートをめくってみれば、やはりドイツ語で書かれている感想が
多く目に止まった。日本人のモノは無いだろうかと、さらにページを手繰って行くと日本語や英語で書いた幾つかの文章を見つけることが出来た。

何れも丁寧な筆記体で日本語や、英語で印象・感想を書き綴っているのが、何とも微笑ましく嬉しかった。どう言うわけか、この日に限って気おくれがして、私はペンをとらずじまいでした。

主な展示品は、ゲーテがローマから国もとの友人へ送った手紙(コピー)、
ローマの風景を描いたスケッチ、手書きの色彩論、絵画、など多岐に亘るコレクションでした。

ところで、ゲーテ(1749-1832)は、1786年~1788年の2年間を
ローマのここコルソ通りに面したアパートを借りて(と思われる)取材、研究活動をしたことになるのですが、それは彼が37歳から39歳に掛けてのことであります。

何処の博物館、美術館でもそうであるように、やはり「ゲーテの家」でも
出入場口では、絵葉書をはじめ参考図書、オブジェなどが並べられていた。

出口から階段を下ると立派な体格をした紳士が、一歩一歩壁に捕まりながら歩いていたのを追い抜きがしらに、”グーテン・ターク”と声をかけると、”グーテン・ターク”と本物のドイツ語が飛んできたのでした。

                               中央の双子教会に挟まれたコルソ通りに
            「ゲーテの家」博物館があります。

           
                               ゲーテが、ドイツの知人へ書いた手紙の写し
            流れるような綺麗な筆記体に感動!

絵画:ローマ郊外で休息するゲーテ
            の写真パネル(右側2/3は隠れてしまった

            
            夢焦れ アルプス越えて コルソ住む

            イタリアへ 光り求めて 地中海 
                                元鷹

                 






2014年9月10日水曜日

第275話 市井のある81歳のロマーノ

このブログの表紙には、自分で歩いて発見したローマの驚きをご紹介しますと、ご案内しています。これまでもそうであったように今日の第275話は、まさにローマの驚きの、否、感激との出逢いのお話しであります。

ところは、ペルセンティ通り(ナチィオナーレ通りから入って、カヴォール通りに通じる通り)のある一角でした。ときは9月4日午後8時を回ったころです

このペルセンティ通りには、日本料理の「支倉」がある通りでもありまが、数々の食べ物屋さん以外にも、中々気を引くファッション店やインテリア雑貨商も幾つか軒を並べており、ショーウインドウを見て歩くのも楽しい
ところであります。

この日は、待合わせの時間まで暇潰しに一軒一軒お店をみて回っていましたが、ショーウンドーならぬ普通のガラス戸にベタベタと写真が何枚か内側から貼っている家の前に立ち止まったのです。

写真は、半世紀前のものもあって、セピアカラーに変色しているほどでした。新聞記事の写真に映っているサッカー選手の一団に眼が釘つけになったのでした。

さて、その家のご主人と思しき男性が、背筋をピーンと伸ばして私を見て居るのを知って、直ぐ私の方から挨拶をして、話し掛けさせて頂きました。

私が自己紹介をしたところ、ご主人の名前はフランコさんであることを知ることが出来ました。ローマ生まれの生粋のローマっ子であることを何度も強調され、ここで生まれて以来ずっとここに生きているのだ、と。

玄関先のガラス戸に貼ってある写真を一枚ずつ説明してくれました。
祖父の写真から父親まで、説明をしてくれたのですが、意味不明なところもあったもですが、それはそれとして一元の外人(私)にこれだけ親切に案内をしてくれたことに厚く感謝した次第です。

そして、あれよあれよと云う間に「懸垂」を始めたのでした。
さきほどの会話では、81歳になるとういう話でした。何と信じ難い現実を
目の前で観ることが出来ました。

とても信じ難いのですが、フランコさんは止まること知らずに懸垂を続けるのでした。イタリア人は、ユニークな人が多いのは今日に限ったことではありません。

それにしてもです!?体操の時間とばかり、「懸垂」を始めた
フランコさんに脱帽です。参った!参った!!


                                            健康増進、体力増強の為に
                ケンスイを続けているのでは、と
                勝手に推測しています。


                八十(やそ)超えて 懸垂励む フランコ氏
                                       元鷹 

2014年9月7日日曜日

第274話 トラステヴェレ界隈風景

9月5日〔金〕午前9時には、テルミニ駅五百人広場のバス停にて、トラステヴェレ方面行きのバス「H」(アッカ)の到着を待つ態勢になっていた。

一昨日は、G/ロレンツォ・ベルニーニの彫刻の傑作「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」を是非この眼で観たい、との一心でこの作品を有する教会のあるトラステヴェレに出掛けた次第です。

詳細は、第273話をご覧ください。今回は、教会を後にしてから散歩した際のトラステヴェレ界隈の風景を、一角だけですが、ご紹介致します。

時間もあり、またバス停までの距離も10分ほどかと踏んでメインの通りであるViale di Trastevereを歩くことにしたわけですが、途中、トラステヴェレらしさを想わせるシーンをデジカメに納めました。

さて、バス停のあるベッリ広場に着くとか傍らにあるバールに入り、エスプレッソとコルネット注文した。どういうわけか、バール選びはかつて入ったことのある店になってしまう。何故だろうか?と我ながら時に思うのです。

バス停脇にひと際目立つ石像があるのですが、この日に限っては像のうしろ側を廻って見ることにしました。このうしろ側の石板にも眼を見張る興味あるデザインを発見して面白がったりしました。

それは、5月27日のブログにも掲載しておりますが、「パスクィーノ」と
その像を見上げる人達が、生き生きと石板に彫られているものです。

この石像とは、トラステヴェレの詩人ジュゼッペ・ジャッキーノ・ベッリ(1791-1863)であり、彼の功績を讃えたものであります。〔1913年〕

ローマ訛りの鋭い風刺のソネット(14行詩)を、即興で歌いまくった詩人として知られています。即興と云えば、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-75)の「即興詩人」を想いだします。

河島英昭著「ローマ散策」(岩波新書698)に詳しいのですが、
アンデルセンの「即興詩人」は、この即興詩人G/ジャッキーノ・ベッリが、
生きた同時代のローマやナポリなどでの数々のドラマを描いております。

2年前にもなりますが、日本から持参した口語訳即興詩人(安野光雅著)を読みながら、19世紀前半のローマやナポリなど、当時のイタリアの風景を楽しんだことを想いだしております。




                               並木道中央を走るトラムが中程に見えます。

サン・クリソゴーノ教会
               ロマネスク様式の鐘楼  


            Piazza Belli(ベッリ広場)に建つ風刺詩人
            G・ジャッキーノ・ベッリの石像がトラステヴェレを
            見守っています。

          
             ローマ右岸 トラステヴェレ 味なとこ
                                 元鷹
              

                  

2014年9月6日土曜日

第273話 フランチェスコ・ア・リーパ教会

やっぱりROMAのローマたる存在の偉大さは、「ARTE藝術にあり」ということなのだろうか?と、G/ロレンツォ・ベルニーニの彫刻を見詰めながら唸ってしまった。〔9月5日午前10時頃〕

ここで言うところのベルニーニの彫刻とは、ローマ右岸トラステヴェレにありますサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会アルベルトーニ礼拝堂の《福者ルドヴィカ・アルベルトーニ》のことです。

ルドヴィカは貧者に対する献身のために福者と崇められていた女性でした。この女性像は,死の床での一種官能的な宗教的法悦を表わしている、というガイド本の説明であります。

以上の由来説明は、ガイド本から一部抜き書きの為に解かりずらいことと思われます。「法悦」という言葉は、私にも難解です。因みに、ベルニーニの作品で、「聖テレサの法悦」という彫刻もあります。

背景にあるストーリーはさて置きまして、この彫刻の魅力は一体どこに在るのでしょうか?そもそもベルニーニの作品の中で、横になっている作品を見たのはこれが初めてです。

横たわるルドヴィカの表情は、どの様に言い現わせば良いのでしょうか?
そして、着衣の自然なさまは、とても白大理石が材料であることなど思いお越しようがございません。

ずっと見詰めていますと今にでも起き上がるのではないか、と想うほどに真に迫っています。半開きの口元からは、呼吸が小刻みにされているかのように見えてきます。

この作品は、ベルニーニが晩年になってからのモノだそうです。製作は、
1671-1674年とのことですから、彼が73-76歳の時となります。

因みにベルニーニは、亨年82歳でした。当時としては、大変長生きした
芸術家だったと言えます。これは勝手な推測ではありますが、念の為。

それにしても、ミケランジェロ〔1475-1564〕は、亨年89歳でしたから、二大天才巨匠は天から与えられた寿命を全うする直前まで、素晴らしい作品を創作したことになります。



                               とても大理石が材料とは信じられない
            美しさです。今にも立ち上がるのでは・・・

アルベルトーニ礼拝堂全景です。
            教会の一番奥左側にあります。左側
            には、窓があって光が入ります。

            

            赤茶びた教会のカラーに味があり。
            昔、アッシジの聖フランチェスコが
            ローマ滞在時にここに居たそうです。


            ルドヴィカの 法悦の顔 驚かん 
            ベルニーニ  ローマの為に 生まれけり

                                   元鷹  

2014年9月4日木曜日

第272話 白露の候 雑感

岩波の国語辞典を引けば、「二十四気の一つ、秋分の十五日前、九月八日ごろで、このころから秋気が加わる。」と解かり易い表現で説明してくれています。タイトルの”白露(はくろ)”のことです。

今年も九月に入りました。年年歳歳一日一カ月一年が早く過ぎ去るように
感じられるのは、何故だろうか?などと同年輩の人達との会話でよく出てくる話題のひとつです。

因みに傍らに置いてある三省堂ことわざ・慣用句辞典第二版を引いて、
「月日に関守りなし」(月日には、その運行を止める関所番はいない、の意で、年月のたつのは早いものだということのたとえ。)という面白い慣用句を見つけました。成程、昔の人はうまい言い方をするものかな、と合点。

さて、ローマの天気の今は?
この夏は、私にとって三年前から四回目の夏になったわけですが、比べると今年の夏は、短かったと印象です。毎夏のあのジリジリとしたあのローマらしい夏を味わう日が少なかった。

前半(七月)の夏は、雨が多かったようです。これも余りローマらしく無かった訳ですが、世界的な異常気象と云われる昨今です、ローマだけが例外の枠から外れる訳には行かないのは当然であります。

さて、不思議なことに九月一日からパッタリと云う表現がピッタリする秋の天気になりました。立秋(八月八日ごろ)のころから、朝夕の風は頬に秋の気配を感じさせてくれていました。

してみると改めて天体の不思議を思わざるを得ません。
来週八日(月曜日)には、満月の綺麗なお月さまを観ることが出来る、と
知人が嬉そうに説明してくれましたが、慌しい日々を繰り返す生活をいっとき忘れて、私もお月さまをじっくり眺めながら、秋の風情を楽しみたいと思っています。
シチリア島 パレルモの月
2013年9月21日撮影
 
 
まんげつを とってくれろと なくこかな 一茶
 
 
夏の夜や 窓から見ゆる 月を抱く  元鷹